あるあるトラベル

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32歳ニートが世界一周【カンボジア 1,2日目】プノンペン観光と悲しい歴史

2018年2月13日

カンボジアに入国しました。

前回記事

www.alaltravel.net

到着後、バイクタクシーで宿まで送ってもらう。

予約していないため、セントラルマーケットに近くで安いところに連れって行ってもらった。

セントラルタワーというバックパッカーだ。

部屋によって値段が違い、US$3、US$5、US$7と3種類の部屋があった。

US$3とUS$5の部屋は誰かがゲロっていたので、しかたなくUS$7の部屋に。

この日は夜ご飯は食べずにシャワーを浴びて就寝。

 

2018年2月14日

朝起きてまずは国境で両替してしまったカンボジアリエルを全てUS$に両替した。

www.alaltravel.net

 

最初セントラルマーケットに行ってみたが特に欲しいものもなく、北東へ500mほどのところにあるワットプノンペンへ向かった。

 

向かう途中に美味しそうな麺屋さんがあったので入ってみた。

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モヤシがめっちゃうまい。

もちろんスープも。

US$3だった。

 

ワットプノン

小高い丘の上にあり、プノンペンでは1番高い位置にあるお寺。

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庭には直径20mほどの大時計もあり、綺麗に整備されています。

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川沿いを歩く

次に川沿いを南へ下っていくとなにやな大きなお寺が。

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王宮

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今なお国王の住む王宮。

ドレスコードも厳しく、短パンやノースリーブでは入場できないようです。

カンボジア王国シンボルともいえる王宮の歴史は1870年に木造の建築物からはじまり、1919年にフランス人建築家によって現在の姿へと変化した。

開場時間【8:00~11:00、14:00~17:00】

僕は時間外だったので入場断念。

 

トゥクトゥク

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バイクの後ろにイスが付いた乗り物。至る所でみることができる。

歩いていると、おじさんに乗らないかと言われるが、いつものように断る。

しかしかなりしつこい。

そして押しに弱い僕は乗ってしまった。

チューンエックとトゥルースレン収容所に行ってUS$14だった。

 

チューンエック(Choeung Ek Genocidal Center)

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トゥクトゥクに乗ったのはおじさんのしつこさだけが原因ではない。しつこさの中にも明るい性格があったことと、少し遠いが、行ってみたいところがあったからだ。

プノンペンの街中から10㎞ほど南にある「チューンエック」

ここはカンボジアの中にある300以上あるとされるキリングフィールドのうちの1つである。

 

キリングフィールドとは

英語をそのまま日本語にするように、人を殺すための土地だ。

 

悲しい歴史

※ショッキングな内容ですので、ご注意ください。

ここからは少し長くなる。

1975年4月17日、ポルポト率いるクメールルージュ部隊がプノンペンへやってきた。

赤いクメールと呼ばれる部隊だった。

 

ポルポト

このポルポトとはとんでもない男で、原始共産主義者である。

原始共産主義とは階級や格差のない原始時代に戻そうとする考え方である。

このポルポトによってこれから、何の罪もない何百万人もの人が殺される。

 

内戦やベトナム戦争の爆撃により、その恐怖から逃れるためにプノンペンへ避難してきていた。

 ポルポトプノンペンへやって来た時、市民はこれで内戦が終わると安心したという。

資料館の中に、クメール部隊が来て喜びの表情を見せる市民の写真が残されている。

なんと悲しいことだろう。

 

ポルポトプノンペンへ入ってから48時間以内に、学校や病院、警察などを全て封鎖した。そして3日でプノンペンにいた人たちを地方へ強制退去させた。

市民も初めは一時的な避難で、少しすれば戻れるだろうと思っていた。しかし地方で待っていたのは過酷な労働だった。

地方へ移動する途中で食料もなく、亡くなった人も多かったという。

 

計画の邪魔者を抹殺

ポルポトは計画の邪魔になりそうな人たち全てを抹殺した。医者、教師といった知識人だけでなく、メガネをかけている、外国人、外国語が話せる、本を読んでいたなどという理由だけで。

また、少しでも反抗した人も。

家族も例外ではなかったとか。

なんと腹立たしく悲しいことだろうか。

 

チューンエックに連れて来られた人

このチューンエックへは後程でてくるトゥルースレンに収容されていた人たちが送られて来た。

ここへはただの移動だと言われ連れてこられたが、行われたのは処刑だった。

移動は夜中に行われ、逃げられないように目隠しをされ、手足を縛られ、監視もついていたという。

 

チューンエックでなっていた音楽

チューンエックの場所は目立たない場所であるため、処刑場所に選んだのだろう。

ディーゼル発電機を置き、日中は大きな音楽を流していたという。この音楽は周りの住人に日常を感じさせるためのものであり、処刑するときの叫び声を消すためのものだったとか。

処刑の仕方もかなり残酷で、穴の前に膝をつかせ、カマやハンマーで殴りつけ殺し、その穴に落としたという。

時には砂糖ヤシの木を使い、喉を切り付けたりも。

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銃弾が高くて買えなかったため、こうしたものを使っていたとか。

兵士とて例外ではなく、わずかな不平不満を言えば殺され、亡命に失敗した人も見せしめのため殺された。

 

今も埋まっている骨や歯

このチューンエックではここを管理している人たちが数か月に1度、地上にある骨や歯を集めているという。

1980年から集められた骨や歯、衣服がケースに入っており、見ることができるが、絶句とはまさにこのことだ。

乳児などの骨も出てきたそうだ。

 

ここには当時収容されていた小屋などが見られない。

1979年1月7日、ポルポト政権が崩壊したあと、怒っていた住民たちが全てを壊し、使えるものは自分たちで使ったそうだ。

 

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チューンエック

音声案内付きで入場料US$6

 

トゥルースレン収容所

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通称「S21」

プノンペンの街中の南にある。

クメールルージュ支配下カンボジアに設けられた政治犯の収容所。

政治犯といっても上記でも触れたように、クメール部隊が変ないいががりをつけた何の罪もない人ばかりだ。

2年9ヶ月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人だけだった。

もとは学校だったが人を収容する施設に変えたのだ。

ここでは嘘の供述を毎日させられ、厳しい刑を受けた。

収容されていたひとや、かつての拷問器具なども展示されている。

1度収容されれば、全ての人が有罪になるようになっていたのだ。

自殺や逃げ出せないように有刺鉄線を張り巡らせていた。

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トゥルースレン収容所

音声案内付きで入場料US$8。

 

殺された多くの人

ポルポトが政権を握っていた3年8か月と20日の間に、300万人以上の人が殺された。

当時の人口は800万人だったそうだがそのうちの300万人も。

本当に恐ろしい。

本当に滅びてよかったが、国連は1991年までポルポト派がカンボジアの代表だと認めていたそうだ。

外国人ジャーナリストは殺され、国境には地雷があり、カンボジア国内の状況はあまり知られていなかったのだろうと推測される。

すべては当時の複雑な政治の側面だったと音声案内は言っていた。

 

まとめ

ここに行き悲しくなったが、繰り返さない、忘れないために負の遺産も大事だと思う。

生き残った人からすれば見たくもないものなのかもしれないが。。。

音声案内では処刑を行っていた人や、生き延びた人の声も入っている。

 

今日の平和に感謝。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。